ところ変われば食べかた変わるー食事のマナー再考
まず食べる=マナー以前
人類とか、あらゆる生物はこの世に発生して以来、モノを食べて生きてきている。
当たり前のことでなにをいまさらということだが、生き物は、空気を吸い、
何かを食べなければ生きていけない。
呼吸をせず、モノを食べずに生きている生き物はひとつもいない。
空気はお陰さまであらゆる生き物に平等に与えられている。
空気は依然として生き物がタダで享受できる生命維持の要素である。
しかし、食べ物はそうはいかない。
人口が少なく自然に恵まれている場所では、人類は長い間狩猟・採集によって
食べ物を獲得し生命を維持し、子孫を増やしてきた。
そのような環境では、食べ物もタダである。今でもそのような生活を維持している
人々がわずかながら存在している。
そのような例外を除けば、人類は家族を最小単位とする集団から社会→国家へと
発展してきた。空気を吸い、費用をかけて食事を続けながら。
この稿では「食べもの」という言葉に固形物から液体まで、人が口から摂取するすべてのモノを包含して使用する。
言葉の区分けとして、日本語では「食べる」と「飲む」を往々にして分ける。
これを両方包含して言える言葉は日本語ではやはり「食事」「食事する」とかいうことになるのだろう。
食事のための材料は食料と言われる。

食料を確保するために、生活環境を整備するために、人々は働き、家族を守り、社会と協働し、国家にいろいろの形で貢献し、
国際社会との交流を続けてきた。
地球に生物が出現して以来、空気はずっとタダだったが、食料は費用をかけて獲得してきた。
その間ずっと、「食べる」という人間の動作は昔から変わっていない。
固形物・流動体・液体とさまざまな形をしている食べ物を口から摂取する。口のなかで咀嚼する。
平行して、何をどのように料理して食べるかについては、すべての人類の最大の関心事の一つでありつづけた。
食材・料理方法・味付けに関する情報はますます豊富になり増加している。
それでは食事に関わるその他の部分についてはどうであろうか?
たとえば、人はどのような格好で食べるか?ということだ。そうくると話題は「食事のマナー」という方向でだいたい一致するだろう。
それをここで考えてみたいと思う。
 食事の仕方=マナー以前
まず、マナー以前について、考えてみたい。
人間に本源的行為として「どのように食べ、どのように飲むか」は、民族により、地域により、国によりいろいろあるだろう。
初めに言えることは、どの民族でも、幼いころから家族の一員として、食べ方や飲み方を両親や兄弟姉妹から、
いろいろ教えてもらうということから始まる。
(以下の叙述は、右利き人々を標準としており、左利きの人々の場合は叙述の逆になる。ただし、左利きの人でも、
食事だけは右利きと同じように食べることを躾けられてきた人々もいる)
私が育った環境の場合、戦前から和食中心で、毎食ご飯とみそ汁とオカズが数種用意され、箸が置かれる。
家族が全員ちゃぶ台の前に正座して、まず「いただきます」を言い、箸をとり、ご飯やみそ汁のお椀を左手に持ち、箸を右手に持って食べる。
食事が済めば「ごちそうさま」と言って席を立つ。
これは日本人の家庭の典型的な食事法であろう。

ところが周知のように、日本人のような食べ方をしない民族・地域・国々が沢山ある。
われわれがすぐに対比したがる西欧の人々の場合、使用する食器はナイフ、フォーク、スプーン、平たいお皿、やや深いスープ皿、
それにグラスと取っ手のついたコーヒーカップなどである。スープはスプーンで掬い口に運ぶ。料理はナイフで切り分けフォークでとり、
口に運ぶ。

そのほかの民族や国々ではどうであろうか?
お隣の韓国の場合、テーブルの真ん中で肉を焼いたり、なべを囲んで皆で食べる。各人の前には金属製のスプーンと箸、
ステンレスのお椀・お皿などが並んでいる。
彼らは箸やスプーンは手に持つが、その他の食器は持ち上げないのが普通だそうだ。ご飯やオカズやは箸やスプーンで取って食べる。
スープ類はスープ皿をテーブルから離さずに、スプーンで掬って飲む。
中国の場合は日本と似たような食べ方をする。ベトナムも同様である。
タイ人はスプーンを右手にフォークを左手で持って食べる。東南アジアにはこのようにフォークとスプーンを使う人々は結構多いようだ。
スプーンがナイフを兼用するので便利だとして流行しているようだ。
インド・パキスタンでは、料理を手で直接取って食べる習慣があることはよく知られている。
 まず手で食べていた
人類は生まれながらにして、自前の食器を持っている。手である。
食べ物を手で持ち、ちぎったり丸めたりして、口に運ぶ。そしてだんだんほかの道具を手の代わり、手の延長として採用するようになる。
「ローマ人は手で食べた。フォークがディナー・テーブルに出されるまでに、まだ1000年待たねばならなかった。」
(食事の歴史 ポール・フリードマン編 東洋書林)
年代順に並べるとナイフ、スプーン、フォークの順番になるようだ。
15世紀ごろ描かれた西欧の王たちの食事の風景にはナイフは描かれているが、スプーンとフォークはどこにも見当たらない。
チーズと肉はナイフで切り分けて手で食べたのだろう。スープはどうしたのだろうか?絵によっては大きなスプーンが出てくるが、
これは大鍋から皿に取り分けるためのものであるらしい。
ローマ時代から1000年を経たルネッサンスの時代には、すでにフォークもスプーンもあったであろうし、
絵のなかに描かれていないからといって、使われていなかったというわけではないかもしれない。
他方、箸(はし)の歴史はナイフ・フォーク・スプーンに比べて相当に古いようだ。しかも中国にその起源があるようだ。
魏志倭人伝に、古代日本人の食習慣について「手食する」という記述があるそうだ。ということはその当時から中国人たちは
手食しなかったということになる。
聖徳太子の時代に中国から箸がもたらされたと伝えられている。
以来、箸を使用する習慣は中国・朝鮮半島・日本を中心に普及する。
なぜか、欧州や中東には浸透しなかった。面白いテーマである。
 食器の扱い方、テーブルマナーの違いを考える
最近、食事の仕方が民族により、国によりいろいろ違うものだなあ、と思うことがある。
一般に、食のこととなると、食材・料理法がもっぱらテーマになってきたような気がする。
.現代は多数の食材が豊富に供給されており、世界中の料理がメディアで数知れず紹介されている。
われわれ日本人は、日本にいながら世界中の料理を楽しむことができる。
他方、食事の仕方については、日本の家庭での食事作法とか西洋料理のマナーとかいう側面からは取り上げられてきたが、
作法以前、マナー以前についてはあまり中心的な話題とはならないできた。
以下、2〜3の例を考えてみたい。 
 食事中の食器の取り扱い方
西洋料理を食べるとき、われわれはスプーンを右手に持ってスープ皿からスープを掬って口に運ぶ。
大皿の上のステーキとか魚のフライはナイフで切り、フォークに刺して口に運ぶ。スープ皿とか大皿を手で持ち上げることはしない。
左側にはパンとバターが小皿の上に置かれる。パンを左手で取り上げ、両手でちぎり、右手にバターナイフを持ってパンにぬり、
パンを口に運ぶ。右側にはコーヒーとか紅茶を飲むためのカップがある。これには取っ手がついており、
取っ手を右手で持ってカップを口元まで持ってきて飲む。
食事のはじめに飲むビールとかワインとかはグラス類に注がれ、グラスを手に持って飲む。

日本料理の場合はどうだろうか。
まず箸を右手に持ち、みそ汁のお椀を左手で持ち上げて口もとまで運び啜る。箸で具を取り口に入れる。
それからみそ汁のお椀をテーブルに置き、ご飯が盛られたお椀を左手で持ち上げ、口もとまで持って行き、箸でご飯をとって口に入れる。
平行的に大皿小皿に盛られた副菜を箸でとって食べる。
場合によっては、大皿小皿を左手で持ち上げて口もとまで持っていって食べてもよい。
なんだか当たり前のことをまことしやかに書いたが、私は西洋料理の食べ方と日本料理の食べ方との間の大きな違いに関心を持っている。
それは食器の扱い方である。

欧州やアメリカに住むコーカサス系の人々が彼らの料理=西洋料理を食べるとき、大皿小皿をテーブルから持ち上げることはしない
ということである。持ち上げるのは水やワインを飲むグラスと取っ手のついたコーヒーカップなどである。
日本料理の場合、主に小皿とか小鉢であるが、左手でテーブルから持ち上げ、口もとまで運び、箸を使って中身を食べるのは
普通の行為である。習慣として、食器を持ち上げることについて大きな抵抗はないのが日本料理に親しんだ日本人の行動であろう。
食事中に大皿を手に持つことはめったにないにせよ、わずかに残った料理を残さずに食べるために大皿を持ち上げ口もとまでもって
いって啜ることも、大きなマナー違反とは思われていないと思う。
けれども欧州人やその系統に属する人々にとっては、このような行為は避けるべきだと考えられているようだ。
嘗てイタリアを旅行したとき、たまたま日本料理店で食事をする機会があった。その店は現地のイタリア人たちも利用するらしく、
あちこちでイタリア人の家族や仲間がテーブルを囲んでいた。
その中のひと組で私たちの隣に座っていたイタリア人グループを何気なく観察していると、ふだん食器を持ち上げない習慣のある
彼らの興味深い行動が見られた。彼らの中の一人の男性だったが、どうやら日本料理は初めてだったらしく、箸の持ち方もままならない。
どうするかなと横目で観察していると、ご飯が盛られた茶碗を取り上げず、ぎこちない手つきで持った箸で、
テーブルの上に置かれた茶碗からご飯を直接取ろうとしてなかなかできないで苦労している。
みそ汁に至ってはお手上げで、みそ汁の入ったお椀を持たずに箸で汁を取ろうとしたが、もちろんそのような芸当はとてもできそうにない。
戸惑っている男性に気付いた仲間が彼に日本料理の食べ方を教え始め、その男性はそれこそ腫れものに触るような慎重さで
茶碗を取り上げなにやら仲間と談笑し始めた。
中国人たちは中国料理を日本人の日本料理と同じようにご飯の盛られた茶碗を左手に持ち食べる。右手に箸を持ち食べる。
お皿も必要に応じて持ち上げる。食べ方では日本と中国には共通する文化があるようだ。
興味深いのは隣の韓国で、西洋式と似ていて皿類をテーブルから持ち上げるのはマナーに反するとされているようだ。
 食事中に立てる音
次に食事中に立てる音のこと。日本人の場合、お蕎麦を食べる時、口で啜る音が出るのは当たり前、お茶を茶碗から飲むときも
口で啜る音が出る。誰も何とも思わない。それが日本の食習慣だからだ。
現在我が家に、97歳の家内の母親が同居しており、ときどき、子供のころ食事のマナーを母親から厳しく躾けれられた思い出を話すが、
97歳の義母は食事中にお茶やスープを飲むとき、口で啜る大きな音を立てる。ということは、義母が子供のころから躾けられたマナーの中に
飲み物を啜る音についてはとくに問題視されなかったことを示している。
ところがヨーロッパ人やヨーロッパ系のアメリカ人たちはどうだろうか。彼らは幼いころから、食事中や飲み物を飲むときに、
「口で音を立てないようにする」ことを大切なマナーとして厳しく教えられている。だから、彼らが食事をしているときや、
飲み物を飲んでいる時に観察すると、口ではほとんどといっていいほど口音を立てない。
スープを飲む時も音を立てずに飲まなければならない。
 テーブルの上の塩・胡椒の小瓶の取り方
テーブルを囲んで数名で食事をしているとき、テーブルの上の塩・胡椒・ソース・ショウユなどの香辛料のビンなどを取る場合の違いも面白い。
日本人だったら、多少遠くにあるビンでも自分で手を伸ばして取るだろう。「失礼」と言いながら取る場合もある。
ところが、ヨーロッパ人たちは、自分の手の届かないところにあるビンは、ビンの近くに座っている人に声を掛けて取ってもらう。
これがマナーのようだ。
私はこの習慣はなかなか良いなと思っている。例えば隣に座っている人の向こう側にあるビンを自分で取ろうとすると、
その人の食事中に私の腕や手をぬーっと出さねばならず、やはり失礼な感じである。
これに対し「スミマセンガ、胡椒を取っていただけますか?」を言い、相手が「どうぞ」と取ってくれる方法では、
相手の食事の邪魔になることはないので、マナーとしてはベターだと思う。
もともと日本に小瓶などを取ってもらう習慣がなかったのは、むかしの日本の食事の習慣に起因しているようだ。
日本料理は一人ひとりの前に膳が置かれ、膳の上とか横に料理から調味料まですでに用意されていて、完結していたのである。
他人に頼まれなくても塩も醤油も胡椒も手元にあったのだ。
それが戦後大きなテーブルで食事をするような機会が増え、自分の手元にあるはずの調味料が遠くのほうに置かれていることも多くなった。
でも、なんでも自分で取るという習慣は残ったのである。
 ゲップのこと
食事のとき美味しく飲んだビールには泡が多く含まれており、液体とともに泡も沢山胃のなかに入り込む。
それが次第に溜まってくると食道を逆戻りし、ゲップとなって口外に排出される。なんだか味気ない表現になってしまったが、
われわれはこのゲップをする瞬間、ビールを飲んだあとの一種の快感を覚えるのではないだろうか?
けれども、ガスとなって排出されるゲップの音は、周囲の人々にとってはちょっとした不快感を与える可能性もある。
この不快感の程度が東西で異なるようなのだ。
とくにコーカサス系の人々の間では、厳しいマナー違反にまでなっているらしい。
この種の話は、個人的な体験をしないとなかなかわからないものであろう。
私は友人の一人から聞いたのだが、彼(日本人)はコーカサス系のガールフレンドの前で、食事のとき何気なくゲップをしたところ、
彼女が怒り出し、結果恋人同士の破綻につながったという。彼曰く、「彼女は私の前で平気でオナラをするくせに、私のゲップを怒るのさ」
この世には、オナラは問題少なく、ゲップは問題多いと考える民族も存在しているということなのであろうか。
 残すということ
「ほら、お茶碗にまだご飯が残っていますよ。もったいないことしないの。一粒残らず食べなさい」
このように母親から注意された記憶は誰にでもあるだろう。
出された料理は全部食べる。とりわけご飯を食べ残すことはもっともいけないと、とわれわれ日本人は厳しく躾けられてきた。
それだからほかの国でもそうだろうと思うと、それがそうでもない国もある。
私が約10年間住んでいたタイでは、逆の習慣があるので驚いたことがある。
私のタイ語の先生は王族の末裔だということだったが、「食事は全部食べてはいけません。
残してあげないとメイドたちの食べるものがなくなりますから」と言っていた。
1970年代、タイではごく普通のタイ人の家庭でも、ほとんどメイドをおき、主婦は外で仕事をしているケースが多くみられた。
だからメイドが三度の食事を全部作る。メイドは作った食事を全部テーブルに並べる。家族はメイドの料理を三度三度食べる。
一家の食事が終わった後、メイドはその残りを食べるのだそうだ。

私の知人で日本から単身赴任してきたオー氏は、最初この習慣を知らずに戸惑ったという。
彼は2LDKのマンションに住み、メイドを雇って生活していた。メイドは毎日彼のために料理を作っていたが、
「女中が、毎回、私が食べきれないほどの料理を作ってだしてくるので困っている。もっと少なめに作れといくら言ってもわからないのだよ」
と嘆いていた。
どうやら(というよりも、間違いなく)メイドは自分の食べる分まで作り、タイの習慣に従って全量ご主人様の食卓に載せていたのである。
だから当然オー氏が残してくれる部分を食べる予定をしていたのである。全部食べられたら自分の食べるものがなくなってしまう。
笑えないような文化の違いである。
日本人の感覚だと、それなら最初から自分の食べる分は別にしておき、主人には主人が食べられる分だけ出せばいいのに、ということになる。
これがタイでは違っていたようだ。理由を詳しく調べていないので、間違っているかもしれないが、メイドたちはご主人様から受け取るお金で、
市場から食材を買ってきて、一家全員の食事を作る。そこではメイドの私的流用は許されないと考えるのが真っ当であろう。
となればメイドは購入した食材を全部使ってメイド自身も含めた全員の料理を作り、それをそっくり先ず一家のテーブルに載せ、
一家の食後に残されたものを台所に下げてきてメイド自身が食べるという行為になるのだと推測される。
それが裏表なく働く誠実なメイドとして評価されるということになるだろう。
ところが戦後メイドなどを使いなれていない日本人には、理解できにくいことであり、オー氏のような戸惑いにつながる。
オー氏のメイドはタイの常識では誠実なメイドとして評価すべき人物だったようだ。
当時タイのバンコクに住む日本人の家族にとって、誠実で働き者のメイドをいかに確保できるかは笑えない重要な課題の一つであった。
住居の掃除・洗濯はもちろん料理もメイドに頼る家庭が多く、食料などの買い物は、メイドに任せることになる。
それにはある程度のお金をメイドに渡す必要があり、メイドが受け取るお金をちゃんと主人のための買い物に使っているかどうか、
どうしても見えない部分がある。
そこには当然信頼関係を保つことが必要だが、メイドによる多少の私的流用もやむをえないと考えるのも生活の知恵であった。
メイドの中には、長い間日本人の家庭に勤め、日本料理をそれなりにこなす者もいた。
彼女たちは、日本人の家庭の習慣になれてくると、料理をすべて食卓に並べることをやめ、自分の食べる分は別にとっておくようになる。
奥さん方はそれをとくになんとも思わないから、日本人の家族は出された食事をすべて平らげることになんら問題はなかった。
                                                                         (2010.2.28)